下田町稲閂寺裏の無縁塚に近い石切り丁場では、徳川時代から明治の頃まで盛んに切り石を採取して、江戸に送ったり、地元でも石塀や竃・土台石などに使っていた。
 徳川時代の終り頃、下田の或る石屋様が石切り作業中、金挺をかけて大石を剥がそうとしてウンと力をこめた途端に、どうしたはずみか挺が外れて跳ねとばされ、2丈(約7米)程もある断崖から真逆さまにヒックリ返り、口から泡を吹き忽ち顔色が蒼ざめ人事不省に陥った。
 一緒に働いていた石工は、アッと驚きあっけにとられて上から見ていたが、漸く我に返って大騒ぎをし、医者よ薬よと篤く介抱したけれども、とうとう息を引き取ってしまった。
 死んだ石屋さんは、その日の出がけに「昨夜の夢見が悪かったから今日は仕事を休みたい。」と云っていたが、家の人にすすめられて生計上止むなく就業した日であった。だから人々は不審に思って、ただの災難ではない、何かの因縁だと騒ぎ、早速占者を尋ね占って貰ったところ、「それは無縁仏の因縁だと易面に顕れた。」と云われた。この石切丁場は、以前に洪水や時化で死んだ無縁仏を埋葬した所であったらしいが、この石屋さんたちはそんな事は少しも知らなかった。
 石切丁場で死んだ石屋さんは、ねんごろに供養された。初七日も過ぎたので、一緒に働いていた友達の右足さんは、又もとの石切丁場で採石作業にとりかかった。
 或る日のこと、この石屋さんどうした訳か仕事が思うようにはかどらず、うまく採れたと思う石も持ち上げると割れてしまう。ああ、こんな日はろくな事はないと、早々に仕事を終って帰宅した。風呂で汗を流して夕飯を済ました時、ふと丁場へ石切り道具を置き忘れて来た事に気が付いた。石屋さんは渋々薄暗がりを辿って道具を取りに出かけていった。
 漸く現場に着いた時、石屋は急に目がくらんだ。青白い大きな光りが天からまっすぐに下って来て、頭の上でフワリフワリと2・3度輝いたのだ。石屋さんはびっくり仰天、キャッと魂消て(たまげて)その場にうつ伏せになり、泣き声で「助けてくれえ、助けてくれえ。俺だ俺だ。恨みがあって光りものを出すのなら人違いだ。俺はお前の死ぬ時親切に介抱した筈だ、迷わず成仏してくれ。たのむたのむ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」
 やがて静かに目を開くと、青光りは2つに別れ高空で入り乱れながら本郷富士の山頂をかすめ、またスーッと2つに開くと萬蔵山のつきでた巨岩を照しながら、漸く消え失せた。
 右屋さんは蒼くなって転げるようにして駈け戻り、人々にその話をした。みんなも「不思議な事があるものだ。」と死んだ石屋さんに皆でまた線香を上げて供養をしたのであった。
 或る人は、その光りものはおりしも下田港へ来航した軍艦の探照燈で、下田の人々が探照燈(サーチライト)の光りを見たのは此の時が始めてであった。とか・・・・
下田市の民話と伝説 第2集より